手元で伸びる球

重い球、軽い球、というのが似非科学(科学でもないか?)だというのは、最近はある程度常識として広まってきていて、声高らかに球の軽重を語る野球漫画もあまり見ないようになったのではないかと思わないでもない。最近読んでいる野球漫画がダイヤのエースと新訳巨人の星「花形」だけなのでなんとも言えないが。あー、Mr.フルスイングはちょっと言ってたっけ?
高校物理の話だが、運動する物体の持つ運動エネルギーというものは
K=\frac{1}{2}mv^2
で定義されるわけで、他のパラメータなんか無いわけだから重いだとか軽いだとか言いようがないのである。重い球というのは打者のバットもはじき飛ばすことが出来るほどの破壊力を持つ速球、それに夢を見た創作人の被造物であるといえるだろう。実際にバットをはじき飛ばすのは上記の運動エネルギーによるのであり、球の「重さ」なんてものには因らない。理論上、どんな投手が投げても130km/hの球ならバットと衝突した時点で及ぼす衝撃は同じになるはずである(回転があるので一概にそうとは言えないが)。となれば、速い球の方が壁にぶつけた際により遠くまで跳ね返るのを見ても分かる通り、「軽い」変化球よりも「重い」速球の方がはじき返される度合いは強いので、バットでジャストミートすると気持ちよくスタンドまで運ばれてしまうくらいに飛んでいってしまうような気もする。が、それはまた別の話で、例えば155km/hのストレートと125km/hの変化球を考えてみると、運動エネルギーは実にストレートの方が約1.5倍にもなる。こうなるとバットとボールがぶつかった際にただはじき返されるだけで済まなくなる場合も出てきて、結果として球が「重く」て詰まるなんてことが起きるのだろう。
ならやっぱり球質の軽重はあるんじゃないかと言われるかも知れないが、焦りなさるな。今話題にしているのは速さにのみ依存する軽重であって、野球漫画で昔よく言っていた軽重は「ヤツの球は速いが軽い」と言った類の矛盾した軽重のことである。具体的には星飛雄馬とか。あとはキャプテンの近藤のカーブはストレートと一緒で「カーブなのに重い」とか。そんなのは創作人の作り出したまやかしに過ぎないという話をしたいのである。
だが、それはそれとして、「重い」「軽い」という認識が誤っているだけで球質と言うものは確かに存在する。
我らが阪神タイガースが誇る藤川球児の球は手元で伸びるとよく言われているけれど、それって一体なんぞやと言う話になるとき、まあよく言われている解答が

予想より落ちない

というものだ。投手の指先から放たれたストレートというのは基本的に強烈なバックスピンが掛かっている。このバックスピンは空気を巻き込んでボールをホップさせる効果を生む。だがまあ一方でこの地球上には重力というモノが絶えずキバを向いているわけで、一旦放たれたボールは万有引力の法則に従ってリンゴよろしく地面へ向かって放物線を描いていくわけだ。マウンドの方が打席よりも高い位置にあるというのもあるかも知れないが、打者へ向かって来るボールというのは「凄まじい勢いで落下している」のと大差ない。如何にホップが掛かっていても、落下する運命からは免れないのだ。だが、もしここで他の投手よりも強力なバックスピンをかけてホップ効果を高めることが出来る投手がいたらどうだろうか。その投手のボールは他の投手のボールよりも落下が緩やかになり、結果として球が手元で浮き上がる様に錯覚させるに至るかも知れない。
ってな話だったと思うのだが……。
えーと、なんでこんな話を書いているんだったっけ。ああ、鉱物学の授業でニュートン力学の素晴らしさを改めて説かれて、その際に「手元で伸びる球なんてあり得ない」って話を聞いたからふと気になったのか。
確かに物理学上は一度投げられたボールのスピードがそこから上がるなんてことは無い。ましてや手元まで来たときにスピードが上がるなんてもってのほかだ。けれども、それは飽くまで客観的に観測した話であって、人間誰しも神の眼は持っていない。我々いち個人が持ちうるのは飽くまで自らの主観による観測である。そして、主観による経験と錯覚が確かに「手元で伸びる」魔球を生み出しているのだろう。
魔球が非科学っぽいのも踏まえた上で言っているが、うん、やっぱり理論を越えた感覚っていうのは人間にとっては神魔の領域なのだろう。いや、実際に魔球なんて言葉はプロ野球界では使われないけれども(むしろ球児の球は火の玉ストレートと呼ばれるけど)、理論で語りきれない感覚を空想と虚飾を交えた言葉で語る時、楽しみを感じる。