山ナントカ太郎規制と表現規制の文脈の相違点

こないだこんなツイートをしたわけです。

他意はなくストレートに。


追加で思うところを書いておこうかなあと思ったので、書きます。
要するに、規制の是非を語る時、何を基準に規制OK/NGを決めるのかという話です。そこが恣意的な基準になれば、規制行為そのものが自ずと恣意的なものになるということです。
上記のツイートは、言うまでもなく「失礼に当たるかとも思ったが気持ちが勝ってしまった」というどこぞのニコ動歌い手みたいなことを言って今上天皇さんに手紙を手渡ししてしまった某本太郎に対して参議院議長から皇室行事参加禁止が言い渡されたという件についてなのですが。

山本太郎議員は皇室行事参加禁止へ NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131108/k10015893901000.html

まあ、これを見て「ざまぁw」と思った人は多いことでしょう。僕自身ある程度そういうことはありました。
Twitter上を見ていてもそう言う反応は普通に見られましたね。
ただ、その勢いにあやかってということでしょうか、「山本太郎は他にも色々なところでやらかしそうだからバンバン禁止していくべき」みたいなツイートがTL上に流れてきたのをみて、「ふむ……果たしてそれはいいのか?」と思いました。
これは「山本太郎山本太郎であるから禁止すべき」という、ある種ヘイトスピーチに近いレベルでの無茶な理由付けになっています。
何故禁止されるのか、という理由が「山本太郎だから」となってしまってはいけないのです。それは理由のようで理由になっていない。
撃っても良いのは撃たれる覚悟がある奴だけだ、と言う話ではありませんけれども、同じ理由、つまり「あなたがあなただからダメなのだ」ということを言われた時に素直に納得出来る人でなければ上記のような論理を肯定してはいけない気がするんですよね。
なんてことを、表現規制問題、つまり「えっちぃのはえっちぃからダメなんです」と無茶を言ってくる人たちに対してちょっと思うところがある身としては考えてしまったのですよ。
「AはAだからダメ」というロジックは、「俺が嫌いだからダメ」の言い換えに過ぎない場合が多いです。つまり、誰かの恣意に他なりません。
世の中そういう「誰かさんの恣意」に基づいた規制ばっかりではあるのですが、まーなるべく減らした方がいいですよね。それに、自分がその恣意の対象になった時、自分に都合の良い恣意は肯定して不都合な恣意は拒否する、みたいなダブスタ状態になりたくないですし。



それはそれとして、山ナントカ太郎規制に関しては一定の正義はあるかなーとか思っているよしけむなのです。
彼は自称「新党今は一人」党員でお山の大将、何はして良くて何はダメなのかを教えてくれる人もいなければ相談相手もいない状態、と推察できます。
陰謀論大好きおじさんだから、きちんとした政党所属の議員たちと馴れ合うのが嫌いなんでしょうかね。社民党あたりが接触を図っているみたいな節もありますが今のところ「一人で戦うオレカッケー」状態を貫いているみたいですし。
そして、彼の支持者層も、「巨悪渦巻く国政の『間違った常識』を、周りに流されず打ち破っていく太郎△」状態ですよね。
これは、周りに間違いを間違いと教えてくれる大人が居ないし、仮に大人に叱られても自分は間違ってないと言い張る。まるで中二病全開の子ども状態なのかなあと思うわけですよ。「間違っているのは俺じゃない! 世界の方だ!」といったところでしょうか。
いやー、「知らないから間違ってもいい」が許されるのにも限度があると思うんですよね。
「子どもは失敗しながら学んでいけばいい、小さいうち、若いうちはどんどん間違え」みたいな教育論ありますけど、アレが成立するのは周りの大人が子どもが間違った時にきちんと指導して正しい方向へ導いてやれるという前提があってのことだと思うんですよね。
そもそも子どもでさえない一人の国会議員が、周りに相談出来る人もいない状態で、好き放題ムチャクチャするというのなら、然るべき人(この場合は参議院議長という職場責任者)がちょっと厳しく出るのも仕方がないことなのかなと思います。
その点が、表現規制問題で起きていることとは違いますよね。こちらは作り手・売り手側が色々な自主規制を敷いてある程度相互監視の下でやっているわけで。
本当の意味で「好き放題」やるってのはやっぱり非現実的なのかなあと。強調と妥協、それらの線引きは、本当に難しい。そしてそれを見誤って他人に迷惑をかけるなら、勿論然るべきしっぺ返しは受けざるを得ない。
それが本当に「然るべき」ものであるのかそれとも理不尽なものかが、重要なんですねえ……。