柔道が消える時代

昨日NHKの番組をちらっと見ていたのですが、なにやら哀しいことをやっていました。
最近、国際柔道は勝てば官軍がトレンディらしいです。ヨーロッパの方では肩や膝を極めて相手の背中を地につけるレスリングと柔道の中間みたいな固め投げ中心の格闘技をJUDOに採り入れて、どんな形でも相手の背中を畳につければ勝ちっていうゲームをしているらしいです。
その映像が何パターンか流れていたんですけれども、普通に思っちゃいましたよ。
これを柔道試合って思いたくない。
と。
なんて言うか、格好良くないんですよねー……。柔道の格好良さって、やっぱり技が綺麗に決まった時の一本勝ちにあると思うんですよ。日頃見ることのない異様な加速度でもって人の体が宙を舞う、あの瞬間。肩なり腰なりを中心に人体という上下対称性の乏しい物体がぐるんと回転するアクション。
あの美しさこそ柔道の強さだと思うわけです。
まあ、なんていうか、YAWARA!に心を熱くしたことのある人間ならこの高揚感、「人が空を飛ぶことの凄さ」をちょっとは分かって貰えると思うんですけれども。
本当に昨日見たJUDOのゲームはよく分からないものがありましたからね。二人がなんかぐるぐるって回って、それで審判が一本を取るんだからやってられない。しかも僕はそれで片方が返し技を決めて一本になったのかな、と思ったら、最終的にひっくり返されて飛ばされてるにも拘わらず先に技を仕掛けた方が勝ちらしい。
わけわかんね。
柔道にはもともとそう言う技は少ないと思うんですよ。技をかけた後相手を投げて、自分が立っている状態が基本で、実際の試合なんかでは勢い余って相手の方へ倒れ込むこともあるけれどそれでもそのまま寝技を有利に持ち込めるのは仕手(つまり受け手の上に仕手がのしかかるパターン)の場合が多いと思うんですよ。
だからあんなぐるんぐるんお互いが上へ下へ転がるような技は何か違和感がある。
色んな競技が国際化していく中で、世界の色々なところにある技術を採り入れて発展していくこと、それは決して悪いことではないと思います。パッと具体例が出てこないのが哀しいんですが。
でも、何でもかんでも発展させればいいってものじゃないと思うんですよね。勝てばいい。ルールには沿っている。そう言って競技が持つ基本的な精神性を無視するような方針を採り入れてしまったら、それは競技自体を別のものに変えてしまうことになるでしょう。
技が綺麗に決まった時にだけ一本、なんてのは実際現実的じゃないんですけれども、じゃあ何でもかんでも一本にしてしまってイイの買って言うとやっぱりそれはおかしくて、今のヨーロッパ式JUDOはどうにも好きになれないよしけむなのです。
あのJUDOをやってる人たちを、滋悟郎さんならどう評するのだろうか。きっとこてんぱんにこき下ろすんだろうなあと思う期待がある一方で、実はむしろ褒めちゃう可能性があるんじゃないかとも思います。要するに負けてる奴らが悪いと。でもって、バーンと一発投げてしまえばいいんぢゃ、とか言うような気がするんです。
でも、世の中みんな柔ちゃんばっかじゃなくて、花園君みたいなのも一杯いて、うーん、そうなるとどうなるよ?
とか、そんなことを考えてしまいました。
柔道は小学校低学年で少々やってて、あと高校の武道選択授業は悩まず柔道でした。まあ同い年で部活やってる人とまともにやれるほどは強くなく、授業だけの人よりは圧倒的に強いという、それくらいの中途半端な実力だったんですが、受け身はある程度とれると思います。
受け身の必要な柔道、それがやっぱり基本だと思うんですが、まあ国際化という名目で海外に主導権を奪われている以上、柔道は消えてJUDOになるしかないんでしょうね。
ちょっとかじった人間として、やっぱり哀しいですねー。

ふと思った。この内容。まさにシンPの「それが僕らのジャスティス」に通じるものがある。ペタリと。ジャスティス、支援中です。

力なき正義は確かに無力だけれど、誇り無き力に意味はあるのだろうか?

眠い。
眠い上に、ご飯のスイッチが入ってなかったのでご飯が遅い。
あー、めんどい。