せめて夢の中では幸福に

昨日書き上げたNF用原稿、まだ一読すらしてないわけだが……。果たしてこの原稿を推敲できるか、少し不安だったりする。
何故かというと。
こんなもんこっ恥ずかしくて読めるか!
とならないだろうかというわけだ。
いや、流石に冗談だけど。
そこまで恥ずかしい内容にはしていない。ちょっと背中がこそばゆくなるかも知れないけれど、その程度。
まあ、それ(推敲)はとりあえず水曜日用の原稿を仕上げてからになるでしょうね。じっくり推敲する前にちょこっと改稿することになりそうだが。

どこで読んだのか覚えては居ないが、こんなことを読んだことがある。小説の主人公というのは作者の投影であり、良くも悪くも作者を越えることはないとかなんとか。多分良い作品を書く人は人間としても深いというか、人間が出来ているというか、そう言うことを言っている文章の中でのことだったと思われる。
作者は主人公や他の登場人物に自分の夢を背負わせたり、驚くような出来事の中で暴れさせたり、或いは悲しい出来事に出くわさせたりする。それらを通じて主人公は何かの「思い」を成し遂げたり、「願い」を叶えたりして、作者はその成功を疑似体験するのだろうと思う。その「思い」であるとか「願い」であるとかは、作者が現実世界で叶えたくても叶えられなかったものである、と言うことはきっと珍しくない。
自分では出来ないこと。異世界に飛んで冒険をする。勇者になって魔王と戦う。巨大ロボに乗って世界を救う。学園のアイドルと大恋愛を成就させる(←それなんてギャルゲ?)。作者がそんな様々な願望をつぎ込んだ時、ひょっとしたらたぐいまれなる現実感を伴った小説が生まれるというようなことも起こるのかもしれない。
いずれにしても、小説(いや、漫画やアニメでもそうかも知れないけれど)を作るという作業は膨大なエネルギーを必要とするけれど、その動力源の一つとなっているのは間違いなくこのように自己の願望を擬似的に成就させたいという、いわばメタ願望とでも言うべきものだと思う。
経験談から言うと、そう言う時に書くととても筆のノリが良かったり、進みが早かったりするわけだ。思いが強ければ強いほど話を御するのは難しいが、御し得てしまえば後は速い。自分をきちんと制御できていない証拠でしかないから、何とも恥ずかしい話だ。

話は変わるが、前述のNF原稿を書いている時に、話が予想もしていなかったところで絡まるというのはとても楽しいと言うことを改めて感じた。
空飛ぶクジラの話は主に三つの時間軸で話が進められる、主人公の一人称小説の形を取っている。あまり詳しく書くつもりはとりあえず無いのだけれど、この三つの時間軸、昨日うだうだと書き進めている内に、当初は思いもよらなかった形で互いに絡み合うことになった。
後から絡まった分、先にその予兆(つまり伏線)を書き足すことにはなったが、こういう風に予想していなかった形で話がまとまるというのは非常に楽しい。まさにモノ書き冥利に尽きるとでも言うべきだろうか。
昨日は書き上がらなくても良いという感じで、中途半端にしか話の像が見えていない状態で書き始めた。だから途中キャラクター任せで進んでいる部分も少なからずある。話がうまい具合に収束しだしたのは物語半ばを越えたあたり、視点を移りながら主人公の心情を描写している内に、あるものとあるものが繋がることに気付いた。これは良い。そう思って前へ立ち帰り細かい修正を行い、結局話は非常に満足のいく形でまとまることになった。
私は、山場のシーンだけ考えて、そこへ繋がりそうな出だしから書き始めると言うことをしばしばやってしまう。全体的な話の流れは書きながら考えればいいや、と非常にいい加減な考えの下で書いてしまうのである。それで困ることはあまり無いのだが、話のまとまりが今ひとつと感じてしまうことも少なくない。反省材料としてしょっちゅう上がることではあるのだが恥ずかしい限りである。しかし今回は、例によって山場とはじめだけを考えて書き始め、それで居て結果的に上手い具合にまとまった。こう言うのを「うまくいった」というのだろうか、ともかく書いていて非常に楽しかった。いつもこうあればいいのだけれど、世の中早々上手くも行かない。
とりあえず、水曜〆切の原稿はもう一度全体を見直して大幅改稿することになると思う。それも、モノ書きの楽しみの一つだ。