風神秘抄

風神秘抄

風神秘抄

日本ファンタジー好きなら避けては通れないだろう作品に荻原規子さんの勾玉三部作があるでしょう。僕も小学生の時に読んで心を躍らせた記憶があります(もう薄いけど)。本作はその勾玉シリーズと土壌を同じくした平安末期の物語。
買ったのはぶっちゃけ春です。古本市場で見かけて即買い→積ん読入りだったんですがこの度思い至って読んでみました。ルネに平積みされてたり色々賞を受賞したという触れ込みを見たというのもあります。所詮yoshikemは俗物です。

最初は平治の乱なんてところから始まって思い切り合戦の最中。勾玉三部作の雰囲気とは(もう忘れかけてるけど)大分毛色が異なり、正直混乱しましたね。だって、主人公が落ち武者で逃避行してて、付き従ってるのは源義朝だなんて、これからどう進んでいくのやらさっぱりつかめないですもん。源氏で、落ち武者で、とくるとひょっとして「大蛇の剣」がまた出てくるのか、とか疑う余裕もなかったです。
作者自身が後書きで「風神秘抄は続編ではなく新しい物語」と断言しているように、三部作で散々暴れ回った諸ファンタスティック・アイテムは今回は出てきません。時代が下るに連れて神具はその威光を衰えさせ、神や精霊と言った類のものはその力を見せなくなっていく、そして神の時代から人間の時代に移っていくという「歴史」が暗に書かれているのかな、なんて思いました。
今回登場するのは笛で神がかった演奏を出来る上、鳥の王様と話をすることが出来る少年、草十郎。気位が高くて遊女と巫女の中間のような、神がかった舞を舞える少女、糸世(いとせ)。鳥の王であり草十郎と言葉を交わすことの出来る烏、鳥彦王。それから後に後白河法皇と呼ばれることになる時の上皇
荻原さんの作品に出てくる女性……、というか少女ってめちゃめちゃ逞しいんですよね。精神的に強くて、色んな逆境に立ち向かえる。勾玉三部作はそれこそ彼女たちが主人公でしたし。今回は主人公こそ男側の草十郎ですけど、糸世の強さはつくづく目を見張ります。それでいてちょっと儚げな所もあって、なんとも魅力的なキャラクターです。若干ツンデレですし(笑)
どことなく素直じゃないところがまた何とも可愛いのですよ。草十郎が告白したあと「一睡もしてないから寝る」という運びになった時に「寝て起きたら、きっと忘れてしまうのでしょう。男の人の言葉がその場かぎりでも、わたしはちっとも驚かないわ」と。可愛すぎですよ。
話は変わりますがこの話で大きな鍵を握る人物の一人が後の後白河法皇である上皇です。恥ずかしながら僕は後白河法皇というと学研の「マンガ日本の歴史」でのタヌキ顔で、頼朝と義経の間を裂こうと義経に官位を与えて云々というあたりしか思い出せません。上皇は本作品中においては芸能に通じていて芸能の持つ神にも通じる能力にひとかどの理解を持つ権力者として描かれています。理解がある故にその力を用いて自らの延命を図る。さらにはその力を持つ草十郎を愛で欲しつつも危険視したり……、と基本的には障害として色々な場面に出てくるわけです。しかしながらこの男、どうにも憎めないというのが僕の最終的感想です。芸能を理解すると言う意味で草十郎と糸世の性質を真実に近い姿に理解している数少ない登場人物だから、ということもあるかも知れませんし、真意では彼らに害意を持たず好意を抱いている(文中表現もありますが気まぐれの如く刺客差し向けたりもしますが)こともあるでしょう。何よりキャラの描かれ方として悪役としては描かれていないように感じました。悪の立ち回りになっている時は彼自身は直接描かれないのです。これこそ草十郎が痛いほど実感した「実際に痛い思いをしたり苦しんだりするのは下々のもので、もっと大きな流れは別のところ(=内裏)で動いている」と言うことなんでしょうね。そこまで分かっても、最後にちょっと思い知らされた上皇は嫌いにはなれないのです。そう(=完璧な悪役ではなく)描いているのは、ひょっとしたら彼が神の子孫であるという勾玉三部作の流れを汲んでいるからかと思います。
物語の最後には神がかった力は全て失われ、人間としての光ある人生が始まります。平安末期と言えば天皇制の権威が落ちて武士=人の時代が始まる時期です*1。そんな時代を象徴しているように思えてなりません。

*1:皇族=神の子孫という思想は僕には全くない。しかしながら歴史とファンタジーを絡めて見る上ではかなり魅力的な「設定」に思えはしないだろうか。