映画と小説(或いは映像と文字)

映画と小説、この二つはどうしようもなく違う分野でいて、時として同じ作品を別な形で表現するものです。
それは例えばアニメと小説、映像と文字、など同様のケースや抽象化によって換言されうるものですが、今回はとりあえず「映画と小説」を代表させておきたいと思います。勿論夜のピクニックに絡めて。


忘れていた、ということもあって今回映画を見るに当たって小説を再読しました。それも今日映画に行ったのですが、本を読んだのはここ三日です。
映画の開始1時間前まで小説を読んでいたと会って、映画館で席に着いた僕の頭の中には北高歩行祭で繰り広げられた様々な物語がまだ余韻を響かせていました。
誰と誰がどういう関係を持っているのか。誰がどういう感情を誰に対して持っているのか。
要するに初めから色眼鏡で映画を見る、と言っても間違いではない状況だったわけですが。
でも、今回に関して言えば直前に小説を読んでおいて正解だったと思いました。
小説は、文字という媒体である以上描き出したいモノは総て書くしかない。読者は書かれたものは一字一句読んでいくしかない。そう言うものですから、本筋からちょっと外れる“飾り”なども重要なシーンと同じレベルで(勿論描き方によって重要度の差異がつきますが)、読者に読まれます。つまり、一次元的表現であり、我々は線の上に描かれたストーリーを余さず拾っていく事になるのです。
一方で、映画は映像であり、一枚の画面という二次元空間に描かれた絵が、しかも時間的にも変化していきます。小説が一次元であったのに対して映像は三次元(この場合は縦・横・時間)的に描かれるストーリーと言うことになります。次元が増えると当然情報量も増えるから表現する側が詰め込める量も増えます。しかしその一方で観る側の受信能力には限界があり、描き出された総ての事をきちんと受け止めて行くことなどおよそ不可能と僕は考えます(少なくとも僕には無理であり、多くの人間にとっても同様でしょう)。しかも、文字と違って積極的に自己主張することのない「さりげない」表現という事も可能になってきます*1。そうなると、今度は作り手は「この作り込みに気づけるか?」といった感じで細部を詰めていくようになるのではないでしょうか*2
いや、そうまでは行かないにしても、例えば話の流れに必須で視聴者に必ず押さえておいて欲しいポイントと、そうではないが小説を映像化するに当たって細部を作り込むために入れた演技などとは、明らかに演出の度合いが異なるでしょう。
それが今回の夜のピクニックにも見られて、小説を読んでいたが故にちょっとした映画の作り込みに気づけた(ような気がする)から、原作を読んでいて良かったと思ったのです。
とはいえ、僕が見つけたのなんて恐らく本の氷山の一角でしかないのでしょうが。


夜のピクニックは色々な感情が錯綜する恩田陸の名作です。
主人公である貴子と融、それに戸田忍と遊佐美和子以外にも、何人かの心情や感情が作中で描き出されています。その中で、やはり映画化するに当たってはどうしても削らざるをえなかったものも少なくありません。
僕はそんな中で千秋の戸田忍に対する心情がぽつりぽつりと描き出されるのを見て、「あぁ、凄い」と思いました。
彼女が戸田忍について話をしている時に、ちょっと言葉に詰まることがあったんですよね。直前に再読していなければ恐らく流してしまっただろうワンシーン、これを認めただけでも再読には大きな価値があったなぁと思いました。
他にも美和子だって、よく見れば最初の方で何度か言葉に詰まることで「知ってる」感を表現してたりします。これって多分二回見るか、原作を把握してみなければ気付かないことですよね。けど考えてみれば、当然のように起こること。
それを表現してるのに気付かないって、やっぱり映画を見る上で大きな損だと思うんですよね。だから、よかったと。


逆のパターンもあります。
歩行祭開始直前の運動場、様々な運動部員が円陣を組んでいたり声を出していたり、柔道部なんて打ち込みをしてましたし、最後まで描かれてましたけど馬のマスク(朝日校にもあったようなヤツ)を被ってる人がいたりもしました。
こんな、ある種バカらしい行為は、高校生は大好きです。イベントがあると必ず羽目を外すやつがいます*3
他にも、始まる前から熱々に盛り上がってる(?)カップルもいましたね*4
そういう周りの状況って、小説で書くとちょっと煩いんです。主人公達に積極的に絡んでくる以外で周りをあまり書きすぎると、臨場感以前に煩くなってしまう。「なんでそんなことまで書く必要があるの?」って。
だけど、映像の背景としてならすっと“入って”くる。
これって映画の強みですよね。


そんな風に互いに色々利点があって、そしてこの「夜のピクニック」の小説と映画はそれぞれの長所短所をお互いに補い合ってる気がしました。
パンフレットで評論家の池上冬樹さんが「時間があるなら是非比べてみて欲しい。その価値のある小説と映画だ」とおっしゃってます。
まさに、その通りだと思います。
ついでに言うと、もう一度見たくもなる。


追記:幟のデザインはモデルになった水戸第一高等学校の「歩く会」で使われている幟に準拠(?)してるみたいですね。朝日校の朝日祭でのプラカードみたく凝って当然って思ってたんですが、水戸ではそう言うわけではないらしいですね。水戸一高生はそんなところで弾けなくても充分なのかもしれませんね(うらやましい)。

*1:文字でさりげない表現が不可能と言うつもりはありません。しかし、映像に比べると、幾らさりげなく書いたところで描写は必ず読まれるという点で圧倒的な差があります

*2:涼宮ハルヒの憂鬱などまさにその例

*3:原作に於いてはゾンビ高見光一郎が圧倒的に一人でその役割を果たしているわけですが。あれ以外にも様々なパターンがあって当然なんですよ。

*4:内堀亮子がやろうとしたことを現実にやっているカップルとか。考えてみればいて当然。