群れというのは楽しくもあり面倒でもある

ちょっと毒が強いかもねー。


良い事ばかり、なんてものは世の中にはきっと無くて、物事は一面から見れば良い事もあり、裏返してみれば悪い面だってあるということだ。
人と人とが出会い、ともにあるというのはまさにそう言う事で、理解と無理解の擦り合わせでお互いに「ほどよく」心地よい妥協点を探りながら楽しくやる、というのが一般的なところだろう。相手の事が理解出来ない、自分の事が理解されない。そんな面倒ごとを抱える・飲み込む・流す・忘れるなどして処理して尚他人と関係を築くと言う事は重要な事で、余程そりが合わない限りは我慢なり折り合い付けなりがpayすると思われる。なにせ、どこぞの麦の神様が言うように「孤独は死に至る病」なのだから。
要するに、自分以外の人とコミュニケーションを取るって事は、無理解の苦しみだってあるだろうけれど有意義で楽しくて、生きていく上で必要不可欠な事なんだろう、ってことをまず言いたい。
なんでこんな妙竹林なことをいきなり書き出すかって言うと、ひろさんの日記でほんの少しばかり気になる記述があったのでわずかばかりの弁明と反駁をしておきたいと思ったからである。
昨日の総会は割と興奮気味だったので、言葉足らずだったり乱暴な議論だった節は認めざるを得ず、後から考えてみればもう少しマシな言いようがあったり、或いは他人の意見をゆっくりと吸い上げたりしても良かったように思う。けれども是非とも通したい議題だったというのもあって、ついつい荒っぽくなってしまった。それは今思っても全く恥ずべき事であり、反省至極である。
論点にあるのはこういう事実である。「世の中にはとある出来事を楽しめる人とそうでない人がいる」。それは、まあ当然の事なのである。仮に前者をA群、後者をB群と名付けよう。A群とB群の人々がひとまとまりの集団になっている時に、「とある出来事」が起こったとして、A群の人たちはその出来事を楽しめるわけだがB群の人々は楽しめない。さて、ここでA群の人たちはB群の人たちも楽しめるように最大限の努力を払う必要があるのだろうか? それは例えば自分たちの楽しみを圧殺するようなことになっても、「とある出来事」それ自体を排除するような自体になっても、B群の人々とともに適度に楽しめる程度の妥協点を見つけて、自らの欲望を押さえつける、そのような義務が発生するだろうか。

抽象的な話題では埒が開かないのでたとえ話を考えてみよう。
世の中には得てして野球好きな人間がいて、そうでない人々がいる。この場合前者がA群、後者がB群に当てはまる。とある部屋に両群の人たちが集まっているのだが、テレビでは偶々野球中継をしている。A群の人たちは中継を見ながら雑談に興じて、それぞれ野球観なんかを語ったりしている。B群の人たちはそんな中には混じる事が出来ず、なんとなく集まって雑談に興じている。
A群の人たちはここでどうするのが正解なのか。テレビを消してみんなで出来る何かを考える。まあそれも良いだろう。極めて道徳的な、全体をよく見ている優等生的回答で、それでみんなが相応に納得するのならそれでも構わないと思う。
だが、別にテレビを見続けているという選択肢を取っても構わないだろう。野球中継は永遠に続くわけではない。中継鑑賞それ自体がB群の人たちに不快感を与えているかどうかは、状況如何だろうから何とも言えないが、余程野球に恨みを持つ人間でもない限りはそれほど不快感を持つ事はないのではないかと考える。
今考えたいのは、A群の人たちが何を至上命題とすべきか、ということである。最優先事項は「みんなで楽しむこと」なのか、それとも「B群の人たちを楽しませる事」なのか、或いは「自分たちの楽しみを追求する事」なのか。


すでにちょこっと意見を述べてしまっているが、恐らく最も優等生の回答は「みんなで楽しむ事」だろう。そりゃ、全員が全員一つの事に関してわいわいがやがややっていられるというのなら、それに越した事はない。けれど、それは難しいというのが現実だ。人数の母体が十人を超えてくると趣味主義主張様々な違いが顕著化してきて、結局五人ずつくらいのグループになってしまう場合だってあるだろう。理想論というのは理想であるが故に難しい。
でもって、今問題としたいのは残りの二つ。他人優先か自分優先か、その二つである。
昨日の総会で僕が異議を唱えたのは、どうにも話の流れを聞いていて「A群の人たちはB群の人たちが楽しめるように徹底的に心を砕かなきゃならない」と聞こえかねない状況になっていたからである。それは違うだろう、と思う。勿論A群の人たちがB群そっちのけで盛り上がりすぎるというのもそれはそれで考え物だが、だからといって彼らが自分たちが楽しむ権利を剥奪されてまでB群の人たちのご機嫌取りに腐心するというのは確実に何かが違うはずだ。B群の人たちって言うのはなんなんですか? お客様なんですかね。そんな事はなくて、もしA群とB群が対等な立場であるのなら、両者からの歩み寄りがあって然るべき。
勿論コレだって一つの極論で、昨日この側の意見を述べた人は「そこまで言っていない」と言うだろう。だが、そう聞こえかねない状況だったのもまた事実だ(つまり少なくとも僕一人はそう感じていた)。
故に程度の問題、と異議を唱えたつもりだったのだが、今ひとつ言葉が足らず伝わらなかったらしい。別にA群の人たちがB群の人たちをまるっきり無視しても良い、とまで言ったつもりはなかったのだが、意思疎通というのはかくも難しいものである。
因みに野球中継の例では両者が親和するような部分(つまりB群の人たちが野球中継を楽しめる可能性)はほとんど無いわけだが、例えばバラエティ番組ぐらいなら、最初はあんまり乗り気じゃなかったB群の人たちを強引に引き込んでみたら意外と楽しんでくれた、なんてこともあり得そうな話である。
昨日の総会の話題に昇っていた事柄は、僕の中ではそういう風に「人によって程度の差こそあれ、それなりに楽しめる事」だと思っていたんだが、そんな風に二元的にしか捉えられないものだったのかなぁ……、と不思議に思う。


何もしない、っていうのは思ったより簡単な事で、口を貝にしてぼーっとしてれば時間は止めようもなく過ぎていく。その時間をどう使うかというのは一人一人の自由であり、結果が有意義かそれとも意義の薄いものだったか、それは個人の責任だと思う。
世の中にはなんでも面白がって飛び込んで行けてどこでも楽しくやっていける人間と、そうでない人間がいるというのはある程度認識しているつもりである。自分などはどちらかというと後者の引っ込み思案なクチに含まれても良いくらいだと、しばしば思う。
けれども、たまに(月に一度くらい)引っ込み思案を蹴り飛ばしてえいやっと勇気を出してみる事があるわけで、そう言う時に何か悪い事があった記憶というのはほとんど無い。世の中って言うのは、割と旨い具合に出来ているもので、自分から動けばそれなりの経過と結果がついて回ってくれるものであるらしい。というのはいささか楽天的すぎるだろうか。
幸せは歩いてこない、だから迎えに行くもんだ。って昔誰かが言ってた。
人生を楽しむ為に必要なのは小指の爪ほどの勇気と、適量の努力。
そんなものがほいほいあったら苦労はないなー、って思ったりする昼下がり。


出来る人はみんなそう言うんです、って言うのはよくある一つの反論で、そればっかりは結果論だからなんにも言い返せないんですがね。
なんかあったらコメでどうぞ。正直こういうめんどい議論はあんまりしたくないんですけどねー。あたりまえがあたりまえならあたりまえにみんな笑顔、それが僕の持論なんで。