よしけむは大変な物を反駁していきました

メリット1にごっすんごっすん五寸釘☆
いやいや、そう言う問題ではなくね。ふと思っただけです、気にしないで下さい。

雨の中、明日のディベート甲子園で審判をつとめる人用の審判講座でございました。ノートルダム清心女子大学も久しぶり、というか前回のディベート甲子園以来一年ぶりでしたね。
支部長のY先生や、高三時にさんざんお世話になったI先生とも久しぶりにお会いして、懐かしかったです。
なによりあのディベートの雰囲気がね、いいね。
忘れていた勘を取り戻しつつ、色々ディベート審判が抱える問題などを見つつ、懐かしの第十回の録画映像で実際にフローシートを取りつつ判定してみたり、去年の審判としての苦労を思い出したりしてました。
色々思い出すに連れてディベートの楽しみを思い出して、明日試合を見るコトへ期待が高まっていきますね。
因みに去年は試合後にこんなコトを思っています。
http://d.hatena.ne.jp/yoshikem/20060626/1151326656

四国勢についてはよく知らなかったんですが、徳島文理は試合を観た限りでは結構良い線を行っている感じがしました。
相手の議論を理解した上で反駁する姿勢が見受けられたし(当たり前のことだけど、相手の議論を否定することばかりに捕らわれすぎる人が多いのは事実)。

そう言えば、なんかあんまり議論がかみ合って無くてジャッジしにくい印象を受けた気もするんですよね。お互いにすれ違いの議論を続けていたら、どっちの価値とも判定しがたくて結局イーブンくらいかなと言う中途半端な判定になってしまいがちなわけです。
相手の議論をつぶすことも重要ですが、きちんと一度受け止めた上で反駁をしないと聞いている方としては本当に判定しにくくて、良い反駁があんまり評価できなかったりたいしたこと無い議論が妙に大きく見えたりしちゃうことも事実なんです。
そして、やっぱり第二反駁に過剰な期待をしてしまうのはもと第二反駁の悲しい性。いや、確かに初めは立論でしたけど、三年の途中で第二反駁に転向して、結局もっとも力を入れたのが二反だから第二反駁が一番気になるわけですよ。中途半端なサインポスティングであちこちに議論を飛ばす論者にはため息が漏れるとか、そんなことにもなりかねない目で見ています。
だ・か・ら、価値の比較とか議論のまとめとか、きちんと出来る人を見られるとたぶん幸せな気分になれるんだろうな。と。
第二反駁のみなさーん、まとめには2分弱は費やしましょうね。1分半を切るときれいにまとめてジャッジに良い印象を与えるのは難しいと思います。第二反駁は「スピーチ」して丁度良いくらいですから。まあ、あくまで私の個人的考えですが。

それとは別の話で、今日ちょっと講習会でも問題になった話。
量的議論と質的議論。
これは私も選手時代から(たった2年前ですが)考えている問題。
去年も道州制を検討するに当たって何か考えたことをつらつらと書いてます。
http://d.hatena.ne.jp/yoshikem/20060720/1153362863
http://d.hatena.ne.jp/yoshikem/20060722/1153536817
質疑から第一反駁につなげる段階でこういう反駁をよく見かけます。
「これ(メリットorデメリット)はどれくらい起きるんですか?」→具体的数字はわかりません→「具体的な証拠資料が提示されていないのでどれくらい起きるのかが分かりません」
私自身は、これは十分な反駁とは思っていません。少なくとも選手時代からこれで相手の議論を潰せたとも思えませんでしたし、第二反駁としてもこんな程度の反駁ならもう一回掘り起こして再提示していました。
話を簡便にするために肯定側のメリットを否定側が反駁するとして。

  • 肯定側は論理的な筋道を立てて何らかのメリットが発生することを述べました。理屈はとてももっともらしいのですが、それの具体的な量を示す飼料がいっさい提示されていません
  • 否定側は質疑で「どれくらいか」を訊ね、第一反駁で「どの程度起きるのか不明です」と述べました。

この場合、勿論これから後どのように議論が伸びていくかにも寄りますが、もし仮に肯定側が何の反論もせずに、否定側がさらに第二反駁で「メリットがどれほど起きるのか分からないのは確認したとおりです」と反駁したとしても、私ならある程度メリットを取りますよ。
「どれくらい起きるか分かりません」と言っただけでは、議論をイーブンに戻しただけなんですよ。つまり「どれくらい起きないのかも分からない」わけですから、反駁として肯定側の議論を否定する段階には少しも至れていないわけですよ。
そうなれば、論理的に筋道立てて立証している肯定側と、ただ無根拠に「具体量が分かりません」と言っているだけの否定側、落ち着いて考えてみればどちらに分があるかは明らかです。フローシートに書き留めていくだけだと「否定側は反駁をしたが肯定側はそれに対して何も言わなかった」という事実のみを追ってしまい、その中身が議論として的を射ているかどうかを見過ごしてしまうことがあります(特に今回のように反駁したorしないで表面上ワンサイドになっている場合)。そう言う場合、冷静にきちんと見なければいけない、それは審判の義務ですね。
ただし、勿論肯定側が第一、第二反駁で強調するならそれにこしたことはありませんよね。「否定側は具体的な量が分からないと言う反駁をしましたが、『起きない』と言う反駁は一切なしていません。対して肯定側は発生過程を論理的に辿って発生を証明しました。よってこのメリットの発生はかなり認められることをご確認下さい」とでも。
明日は是非、この「量が分かりません」反駁を快刀乱麻にざっくり斬る反駁を見たいものです。

最後に、今日提示された大問題。高校生の論題*1がはらむ凄い問題があります。
他の地区で起きた問題、らしいんですけどね。
否定側がこんな議論を提出したそうです。「国民投票法が可決され、日本は現状維持でも選挙権が18歳に引き下げられる見込みが高い。よってプランは内因性を持たない」とか。
ディベート甲子園のフォーマットではプランは内因性を持つ必要があります。つまり「プランを実行することによってのみ」メリットが発生する、ということです。プランを実行しない現状維持のままでもメリットで言っていることが発生することを論証できれば、そのメリットは意味をなさなくなります。
この場合肯定側のプランは「何年後かに18歳以上の国民に選挙権被選挙権を与える」となるんでしょうが、そんなプランをあえて実行する必要はないと否定側は言っているわけです。
んー、これってどうなんだろう、と思うわけですよ。
最初は私は内因性のところに注目して「肯定側が現状での引き下げは見込み薄であることを反証*2すればちゃんとメリットは通るだろう。逆にそれが出来ずに否定側が「確かに見込みは高そうだ」ということをきちんと示していれば内因性が無くなってメリットは無くなるのかな、と思っていたわけですね。
だけど、他の人や講師で来られていた方の話を聞くに、どうもそれだけでは終わらないようですね。
つまり「否定側は結局18歳選挙権を肯定してしまっている」という話ですよ。それじゃあそもそも反駁になってない・議論になっていない。お互いの議論の行き着く末で18歳選挙権は肯定されてしまっていることになるのではないか、と。
否定側はプランを否定することには成功しているんですが、大きな目で見てみると論題である「18歳以上の国民に選挙権を与える」という点は肯定しちゃっているんですよね。
たぶん、もし唐突にこの議論が出てきたら審判も選手も大混乱に陥ると思うんですが、もしも肯定側の反駁が落ち着いて「否定側の言っていることは結局18歳選挙権を肯定する物であり、論題を肯定しています」とでも言ってしまえば否定側の自爆は決定的ですよねw
そこまで議論が行くかどうか、そもそもそんなセコい内因性の議論を出してくるかどうか。んー、まあ某高校はそんな議論を出して来かねない気もするのですが……。

まあ、そんな風に色々とややこしい問題をはらむ今回の議論なわけです。
どんな試合内容になるのか、今から楽しみが隠し切れません。
んでもって、色々書いたところでこれを見る中四国ディベーターなんていないわけですよ。

色々書いていたら今日参議院選挙の期日前投票に行ったのがずいぶん前のことに感じられます。
初☆参政権行使!
高校論題は自分に身近な物としてとらえられそうです。

*1:日本は18歳以上の国民に選挙権・被選挙権を与えるべきである。ただしこの場合の選挙権・被選挙権とは公職選挙法が定める選挙に関する物とする

*2:某与党とかは支持層である高齢者層の率が相対的に下がるからあまり賛成ではないだろうとか、資料が無くてももっともらしく論理づけて反駁すれば議論としては成立する