最大多数の最大幸福

某高校某部の話〜一OBとして
厳密に言えばその部では3年生はまだ現役扱いとなるため、yoshikemはOBではありません
だが、一般的呼称としてOBを自称する要件は満たしていると思うので自称させてもらいます。
その部では基本的に活動期間が1年の5月から3年の4月、それと3年の3月ってことになっています。
それはともかく、yoshikemは3年の4月まで色々活動してきて、4月の新入生勧誘には出来うる限りの助力をした上で一応それ以降は無干渉主義を貫いています(そして基本的に多くの3年がそう)。
まあ、いつまでも老婆心を出して色々口出すわけにも行かないし、そうすると自分の時間もなくなってしまうため、ある意味我が身かわいさというのもあるのですが。
で、最近思ったこと。
外から見るとやはりあの部活動の特異性がよくわかる、ということです。

case.1:部活はミーティングがお好き

yoshikem在籍中(今も在籍はしているが、一応現役で活動中という意味で)からそうだったのですが、ミーティングの好きな部活です。
それも、個人個人は嫌っているのになぜか全体としては好きだという……。
練習時間の確保よりもミーティングで意識統一をする方が大切ということです。
そのこと自体を否定するわけではないのですが、どう考えても閾値がおかしい。
あまりに些細なこと、気に留めるべきでないことにミーティング時間を費やしているような気がするのです。
そんな愚痴を、現2年生からも聞くのです。
yoshikemはちなみにミーティング反対派でした、と言うか面倒、と言うか成果が今ひとつ出にくい、と言うか根本的解決につながりにくいし(段々言い訳じみてくる)。
大学の先輩の話を聞いたら、吹奏楽部の話でしたが、ミーティングで数時間とか普通だそうです。
あるいは、顧問の先生の前任校でもそうだったとか。
しかし、今ひとつ問題の解決性への直接アタックになっていないのと、あくまで主体性を欠いたミーティングが多い(要は先生に言われてやっている)為に全体が主たる目的をはっきり把握していなかったりすることもあるという点は問題だと思うし、そもそも部員間で「暗黙の了解」化してしまっていることをつついたりすることが多かったので、yoshikemは嫌いでしたね。
周りの人たちは(本当に)やりたそうな人もいたので、基本的にはあまり止めませんでしたが。
今はどうなっているのかは知りませんが。

case.2:第三者は見ていた、のか?

昨年、一昨年とその傾向がありましたよ。
特に某協奏曲を演奏会でする、とか、なかなか第三者(=聴衆、観客)を無視したスタイルといえたのではないでしょうか。
そう言う大きなことでない限りは(少なくとも校内行事などでは)、出来るだけ先手を打ってこちらで作ると言うことで第三者を意識した、常識的な内容(その中で最大限の成果を上げられる内容)になるように抑えていたつもりだったんですが。
たまにこっちの権限の範囲外に飛んでいってしまうこともありましたが。
しかし、今回は悪ノリしているのか何なのか。
もうじきオープンスクールなのですがそう言うイベントで、ウケをとることと客がさめること、驚くこととあきれること、興味がわくことと逆にさめることというのはすべて紙一重なんですね。
で、その某部の今回の企画、と言うか読まれる文書は前者と後者の閾値をすべて余裕でぶっちぎっているとしか思えません。
生徒会執行部の知り合いに見せてもらったのですが、……、でしたね。
なにやら色々すごそうなことは書かれているのですが、すべて「だから何?」と言いたくなる、と言うと少し言い過ぎかもしれませんが、すべてを晒しすぎて、そして大げさに書きすぎているためあきれてしまう要素を少なからず含んでしまっています。
大体書いた人の見当がつくのですが、……、多分素直な人だったから某氏の言うことをそのまま全部取り込んだんだろうなぁ、と思います。
yoshikem以下昨年度のメンバーは、大体適度に咀嚼して、バランス調整をしてからoutputしてたんですが、その辺りのことを伝え損ねたのかなぁ、と少々反省しております。
あるいは当人が悪のりしているのならそれはそれで問題ですが。
こんなことでは後々が心配、と言うのも老婆心でしょうか。
三者の視点を意識できないようでは、存在意義すら危うくなる分野で活動しているだけに、幹部の面々には国境税調整のごとく指令とoutputの調整を学んで欲しいです……。
で、なぜベンサム功利主義がタイトルだったりするのか、と言うと観客を意識しないoutputでは実行者は自己満足できるかもしれないのですが、観客は冷めて全然面白くない、と言うことになりかねないんです。
ココで客観的な視点をもつことで、観客が実際に見たらどう思うだろうか、と言うことを想像することで、観客を楽しませることの出来るoutputを形作ることが出来ます。
もちろんそこで実行者自身が満足することは容易に可能でしょう。
結果として幸福の和が最大になるように、それことentertainmentをするものが考えるべきことなのではないでしょうか、ということです。


長ッ!