日常に転がるネタ

http://d.hatena.ne.jp/yoshikem/20080530/1212137346
の記事は僕としては笑い話として書いたつもりだったのだが……、思った以上に訳知り顔で真剣な反応が多くてびっくりしています。
寄せられたコメントやTBが言っていることも十分に分かるんですけれども、僕はあくまで自分の行いに間違いはなかったと思っています。
その確たる根拠、それは自分が今ここで平然と笑い話を出来ると言うこと。
こんなことを書くと「今回はたまたまだったけれど」というような反応をする人がいるかも知れませんけれども、世の中わけの分からない人が増えている一方で、そうでもない人だって変わらず存在しているわけです。その程度見分ける能力は、普段意識しないだけで誰だって持っていると思うんですよ。
例えば、mnasitaninnさんのコメントにある「ごく普通にみえる若者がホームから簡単に人を突き落とす」というケースと人を見る目がない人さんのコメントにある「見るからに話の通じない頭の悪そうなのが4人」、この二者が一致するとは、僕にはとても思えません。そんなことは、世の中には想像を絶する人間がいる、と極論を持ち出されてしまってはそれまでなのですが、さりとて人間が自分の世界に相容れない存在への対応はいくつかの類型に分かれ、その中で上述したような極端な例の人間というのは比較的外見にもその態度がにじみ出てくる者だと思います。
例として、知らんぷり主義、ぶち切れ主義、突発的理解不能対応主義の三つをあげてみます。最後のは突然人を突き落としたりする全くもって常識に欠ける行為を指すものとします。
ステロタイプ的発想と思えるかも知れませんが、この中でぶち切れ主義の人だけはあっさりと外見が想像尽きませんか? 典型的なパターンとして、茶髪、マナーが悪そう、服は着崩れている、積極的に決まりを破る、そんなイメージが浮かぶと思います。それに対して知らんぷり主義がいわゆる普通の人々で、突発的〜の人たちは大抵「まさかあの人が」というようなコメントをされるので、要するに外見的には普通の人々だと思います。ほら、それなりに分かる。
で、はっきり言ってぶち切れ主義は怖くない。そりゃ、恐いのは恐いけれど、直情的で分かり易いからいか用にでも対応はとれるし、そう言う人は(行き過ぎた暴力で勢い余ってと言うケースはあるかも知れないけれど)今駅で非常に連想されやすい突き落としみたいな「誰がどう見ても死ぬ」手段には訴えないと思うんですよね。向こうは向こうで生活があるって言うことを、彼ら自身理解しているから、それが破滅してしまうようなことはしない。最後に「誰にも言うなよ」って脅せるような状況でしか無茶な手段には訴えない筈です。なんだかんだで彼らは「いい人」だから分かり易く外見を変えるなんかしてしまうわけで、そう言う人に継続的に目をつけられると言うのならともかく、一時の出会いとして敵対するくらいなら別に恐さはさして大きくないと思います。特に相手は群れていて、こちらも朝の通勤ラッシュで沢山人が周りにいる場合。
僕が「あの人たち」を弁護する理由なんて微塵もないわけですが、彼らはそんな変な人ではなかったですよ。確かに馬鹿だったけど。どう見ても馬鹿だったけど。思うに禁煙場所で煙草を吸うという背徳的エクスタシーに酔って自らを特別な者と勘違いしているような節はあったけど。そう言う人はまだ常識の箍は外れてない。
ところで笑い話を書く為にはここまで状況を断った上で書かなければならないんでしょうか?
結果論的に話が進められている以上それは笑い話でしかないわけです。のど元過ぎればなんとやら、過ぎたことは全て笑い話に出来る、と言うのが僕の持論ですが、僕は正直言って過去の無事に過ぎ去った出来事に対して何故あんなに諭されなければならなかったのかさっぱり分からない。
だって、諭している人たちは相手がどんな態度で、どんな笑顔で話をしていたかも見ていないわけだし、相手の見てくれだって知らない。状況をさっぱり理解していない状態で表面的に言いたい放題言っている、と極論することだって出来ます。
Taxiのは笑い話に対する自然な反応としてありだと思う(友人だから、というひいき目を差し置いても)。僕も実際にそう言う話をされたら自然な対応としてそう言う返答をする可能性はある。
けれど、それと訳知り顔の諫言は全く別物ですよね。
こういうことを言ったら「お前は何様だ」と思われるし、あの注意が自分のちっぽけな意識を満足させる為だけにやったことと思われかねないんですが、それを踏まえた上で敢えて言うならば、寄せられた諫言のコメントは「自分がそう言った場面で我慢してしまうことに対する言い訳」なのではないかと思ってしまいます。
別にそこで我慢してしまうことが悪いことだと言うつもりはないし、むしろ社会の大勢ははそう言う人で占められているわけですよ。それについてとやかく言うつもりは無いんですが、自分が出来ないことの言い訳でもって他人まで納得させようとするのはやめて欲しいですね。人はそれぞれ独自の思想信条思考回路を持っているわけで、大衆理解を得られる思想に同調できない人だっています、具体的には僕とか。そう言う人を、自分と同じ理屈で納得させてちっぽけな勇気をくじけさせて自分たちと同じ地平に引きずり下ろそうとするのはいかがな者かと思います。そう言う注意を出来る人がいる、それはそれで認めてくれても良いんじゃないでしょうかね。まあ、わけの分からない思考回路に思えるのかも知れませんけれども。
僕がここまで強気に言えてしまう根拠、それは偏に今ここに無事でいる自分それに尽きます。結果論です。けれども、自分が正しいと思ったことをした上で(結果は残せなかったにせよ)こうして笑い話が出来る、これは僕としてはそれなりに満足できることなんですよ。それを訳知り顔で諭すような人ばかりの社会は、一ミリだって好きになれそうにないですね。




↑ここまで書いてしまうとマスターベーションの晒しでしかないわけですが、あんまりにも冗談を冗談と受け止められない反応が多かったので、朝っぱらからキーボードを打つことにしました。あ、二限が始まる。行かなきゃ……、ってあと2分しかないし。遅刻だなー、こりゃ。





青臭い理想論を振りかざせるくらいじゃないと勧善懲悪の小説なんて書けませんよね。中二病の何がいけないのか、クリエイターが自分の心情に正直じゃないなんてたちの悪い冗談ですよ。
仮面ライダーカブトの天道曰く、「世界は自分を中心に回っている、そう考えた方が楽しい」。世の中ものは考えよう、そんな主義のyoshikemです。
今書きたいネタとこの話を組み合わせたら面白いことになりそうで、ワクワクしているところです。何せ今書きたいのは勧善懲悪の勇者の話。昨日まで34k字書いたのを総ボツにしようかと考えて凹んでいたところなので、良い感じの火種があって丁度良いかもしれません。よし、学校行くか。